多国間CBDCプラットフォーム『Project mBridge』:クロスボーダー決済の進展と今後の課題
はじめに
中央銀行デジタル通貨(CBDC)は、国内決済の効率化だけでなく、クロスボーダー決済の変革においてもその可能性が注目されています。特に、各国の中央銀行が協力し、BISイノベーションハブが主導する多国間CBDCプラットフォーム「Project mBridge」は、その具体的な実現可能性を探る重要な取り組みとして位置づけられています。本稿では、Project mBridgeのこれまでの進展を概観し、CBDCを用いたクロスボーダー決済が直面する技術的、法的、そして地政学的な課題について多角的に考察します。
Project mBridgeの進展と特徴
Project mBridgeは、中国人民銀行、香港金融管理局、タイ中央銀行、アラブ首長国連邦中央銀行が協力し、BISイノベーションハブが主導する多国間CBDCプロジェクトです。当初「Project Inthanon-LionRock」として開始され、その後「Project mBridge」へと発展しました。このプロジェクトの目的は、単一の共有プラットフォーム上で複数のCBDCを直接取引可能にすることで、クロスボーダー決済の効率性、コスト削減、決済速度の向上を図ることにあります。
2022年9月には、最小限の実用プラットフォーム(Minimum Viable Product, MVP)によるパイロット試験が成功裏に完了し、その成果がBISより公表されました。このMVPプラットフォームでは、実際の商業銀行が参加し、貿易決済やその他クロスボーダー取引における多通貨支払いをシミュレートしました。参加国以外の多数の中央銀行や国際機関もオブザーバーとして関与し、国際的な関心の高まりを示しています。
技術的な側面では、mBridgeは分散型台帳技術(DLT)を基盤としており、異なる管轄区域のCBDCが直接取引されることで、従来のコルレス銀行システムに依存する複雑なプロセスを排除することを目指しています。これにより、中間コストの削減、決済時間の短縮、そして透明性の向上が期待されています。
クロスボーダーCBDC決済の可能性
Project mBridgeのような多国間CBDCプラットフォームは、既存のクロスボーダー決済システムと比較して、以下のような多大な可能性を秘めています。
- 効率性とコスト削減: 中間銀行の排除や決済プロセスの自動化により、取引手数料や為替スプレッドが削減され、企業や個人にとっての決済コストが大幅に低減される可能性があります。
- 決済速度の向上: 従来のシステムでは数日を要することもある国際送金が、数秒から数分で完了する即時決済の実現が視野に入ります。
- 透明性と追跡可能性: DLTの特性により、決済フローが明確になり、不正取引の抑制やAML/CFT(アンチ・マネーロンダリング/テロ資金供与対策)の強化に貢献する可能性があります。
- 金融包摂の促進: 低コストでアクセスしやすい国際送金手段の提供は、送金に依存する途上国の人々や、銀行口座を持たない人々の金融包摂を促進する可能性を秘めています。
残された課題と政策的示唆
その大きな可能性にもかかわらず、CBDCを用いたクロスボーダー決済には、克服すべき多くの課題が存在します。
技術的課題
- 相互運用性: 異なる技術基盤やプロトコルを採用する各国CBDC間のシームレスな相互運用性を確保することは依然として大きな課題です。mBridgeは共通プラットフォームというアプローチを採用していますが、世界中のCBDCがこのモデルに収斂するとは限りません。
- スケーラビリティ: 大量の取引を処理するためのDLTプラットフォームのスケーラビリティ(拡張性)は、国際決済において不可欠です。システムが予期せぬ負荷に耐えうる設計であるか、継続的な検証が求められます。
- サイバーセキュリティとレジリエンス: グローバルな決済ネットワークは、高度なサイバー攻撃の標的となり得ます。システム全体のセキュリティを確保し、障害発生時の回復力を高めるための強固な枠組みが必要です。
法的・規制的課題
- 管轄権の複雑性: クロスボーダー取引においては、複数の国の法域が関与します。決済の最終性、法的拘束力、紛争解決メカニズム、破産処理など、法的側面での明確な国際的合意形成が不可欠です。
- AML/CFTとデータプライバシー: CBDCは取引の透明性を高める一方で、プライバシー保護とのバランスが問われます。AML/CFT規制の要件を満たしつつ、個人の取引データを保護するための国際的な標準や合意形成が求められます。
- 既存法制度との整合性: 各国の既存の金融法、決済システム規制、消費者保護法などとの整合性を図る必要があります。これには、各国の国内法整備における国際的な協力と調和が不可欠となります。
地政学的・主権的課題
- 通貨主権と金融安定性: 外国CBDCの流通が拡大した場合、各国の通貨主権や金融安定性に与える影響は慎重に評価されるべきです。資本移動の管理、為替レートの安定性などに対する影響も考慮に入れる必要があります。
- データガバナンスとコントロール: グローバルなプラットフォーム上の取引データの管理権限は、国家間の信頼関係と密接に関わります。特定の国や機関がデータにアクセスする権限を持つことへの懸念が生じる可能性があり、公平で透明なガバナンス体制が求められます。
- 国際金融システムにおける影響: CBDCは、国際的な決済システムや基軸通貨の役割にも影響を与える可能性があります。これにより、地政学的なパワーバランスが変化する可能性があり、その影響について多角的な分析が必要です。
政策的示唆と今後の展望
Project mBridgeのような取り組みは、クロスボーダーCBDC決済の実現に向けた重要な一歩ですが、その完全な普及には国際的な協力と共通認識の醸成が不可欠です。
- 多国間協力の深化: BIS、IMF、FSBといった国際機関が主導し、各国中央銀行が連携を強化することで、技術標準の策定、法的枠組みの調和、ガバナンス体制の構築を進めるべきです。
- 段階的アプローチ: 全面的な導入に先立ち、限定的なユースケースや地域でのパイロットプロジェクトを積み重ね、その成果と課題を評価することが重要です。
- 民間部門との連携: 既存の金融機関やフィンテック企業が持つ知見とインフラを活用し、CBDCエコシステムの構築を共同で推進することが望まれます。
まとめ
Project mBridgeは、CBDCを用いたクロスボーダー決済の未来像を示す重要な実験であり、その技術的な進展は目覚ましいものがあります。しかし、その広範な採用と真の効率化を実現するためには、技術的な課題だけでなく、法的、規制的、そして地政学的な複雑な問題に国際社会全体で取り組む必要があります。中央銀行は、これらの課題に対し、多角的な視点から分析と研究を継続し、国際的な協調を通じて、より効率的で安全な国際決済システムの実現に貢献していくことが求められます。